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イスラエル・ガルバン「春の祭典」
軋む肉体、軋む舞台
巧みな名人芸だが‥

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 最初はまばらだったスタンディングオーベーションが、次第に人垣ができて、かなりの観衆が立ち上がって拍手を送りました。最高のパフォーマンスを見せてくれたアーティストへの感動の発露なのでしょうか。コロナ禍の収束が見通せない中、スペインから来日ツアーを敢行、それを主催したアーティストと主催者の努力への賛美なのでしょうか。熱狂を伴わない、不思議な喝采を、わたしは見つめていました。コロナ禍であることを割り引いても、滅多に出くわさない劇場の光景でした。
 フラメンコの革命児と呼ばれるイスラエル・ガルバンが3年ぶりに名古屋に来演し2021年6月23、24の両日、愛知県芸術劇場コンサートホールでガルバン版「春の祭典」を踊りました。

 クラシック音楽の常識を覆し、20世紀音楽の幕開けになったストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」。バイレ(踊り手)がカンテ(唄)、ギターと一体となるの伝統的なフラメンコに依らず、自らの身体を楽器とし、イマジネーションを身体表現として描出していく革命児ガルバンが、どんな既成概念を突き抜けた春の祭典を見せてくれるのでしょうか。

 コンサートホールのステージには、下手に2台のピアノ。床をリズミカルに踏み鳴らすサパティアードの踏み板が大小様々な形状、材質で点在しており、さらにステージ中央奥には、アップライトピアノが解体されて共鳴板むき出しの状態で置かれていました。ここから、ガルバンが意図する骨格が読み取れました。

 IMG_2376.jpg 薄闇の中でわずかに軋む音が聞こえてきました。舞台が明るくなると、イスラエル・ガルバンがむき出しのアップライトピアノの共鳴板に、仰向けになって両脚を伸ばして、張られているピアノ弦を擦ったり、踵で共鳴板を鳴らし不協和音やノイズを奏でていました。鍵盤を剥ぎ取られたピアノは痛々しくも、機能美に満ちた構造を晒しています。意表を突くガルバン流の"春祭"への残酷なオマージュ。その後どう展開すのるか、期待が高まります。

 右脚の太もも、膝にサポーターが巻かれ、ダンサー自身、どこか痛々しい。右足だけ鮮血を思わす真っ赤なソックスを履いているため、サポーターは舞台衣装の一部なのかとも思いましたが、リズムは精巧無比ながら、全身を突き抜けるような強い足鳴らしのサパテアード、残像残るような鋭利なターンはないままでした。特にサパテアードにはかつての鋭いキレがありません。
 フラメンコ一家に生まれ、若くしてフラメンコの最高峰に登り詰め、ちゃんとしたフラメンコが踊れるのに、枠を軽々と越えてみせる冒険精神。そこがガルバンの魅力でした。

 この日見たのは、全編踊りまくっても踊り足りない、最後まで疲れることを知らないように見えた、かつてのガルバンではありません。体のラインを消すように、修道僧のような黒の衣装を身につけていました。しかし、腹まわりについた肉は隠しようがありません。
 今年48歳、ダンサーとして肉体的に軋みがきているように感じました。
 その軋みを、どう表現に転化してゆくのでしょうか。コロナ禍によって、さまざまな問題が露呈し、社会の軋みが顕在化したこの時代にあって、コロナの災厄下で舞台活動の休止を余儀なくされただろうガルバンの肉体の軋みは、社会の軋みと重なり、アーティストが置かれた厳しい状況も映して、それらが身体表現に昇華され、突き刺さるかもしれない。これこそがガルバン版「春の祭典」のテーマなのかもしれない、と。

 ガルバンは打音が異なる踏み板を使い分け、布や足の擦れる音すら効果音、ノイズとして取り込みました。2台ピアノが奏でる音楽と、あまりシンクロすることなく、不即不離のディスタンスを取りつつ、時折白熱するも、意外にも絶頂のカタルシスを築くこともなく、春の祭典を終えました。
 深い思索を経て、様々な推敲を重ねた演出、振付というふうではなく、ガルバンは自身の肉体の軋みと向き合いつつ、肉体の許す範囲で、即興的に踊り、達者な名人芸を見せてくれたのだと感じました。

 自らの身体をパーカッションとし、地鳴りするような重低音から乾いた軽い打音まで、様々に全身楽器ぶりを披露してくれました。が、腕のいい打楽器奏者なら、どれもできそうな範疇にあると感じました。
 上半身は身振り、手振りが中心で、フラメンコ的な要素から離れようとしているようにも見えました。どこかちぐはぐで、試行中という印象です。

 見ていて心が最も軋んだのは、粗い砂礫の火山灰を靴で踏み潰し、ステージの床板に押し付けるように広げてゆくシーンでした。音楽専用ホールの舞台は、生演奏の音響に影響する大切な要素。その舞台板に、傷が付くのではとハラハラさせられました。砂礫を靴で踏みつけても、引っ掻き傷がつかないような特殊な養生がされているといいが。そんな老婆心すら抱きました。
 解体されて、真新しい共鳴板とピアノ弦がむき出しにされたアップライトピアノの無残さ。既成概念の破壊ではなく、楽器を破壊して演出の道具にすることは、邪道と受け取られるかもしれません。


 ダンス表現以前に、禁じ手を使うことに対して、気持ちがざらつきます。この困難な状況を押しての来日公演に感謝の思いはあります。しかし、スタンディングオーベーションの輪の中に入る気持ちにはなれませんでした。=6月24日所見(長谷義隆)