見る・遊ぶ

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甦る宮廷歌人・阪正臣
裏千家神谷宗正さん豊国月釜
"ロコ愛"あふれる一会

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近代の宮廷歌人・書家阪正臣(ばん・まさおみ 1855〜1931年)。ご存知でしょうか。ゆかりの名古屋茶道界では、近年すっかり忘れ去られた感がありますが、生まれ故郷の愛知県知多半島では、今なお敬愛されていることを知り、うれしくなりました。

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豊国神社献茶会の月釜が2022年3月20日、名古屋・中村公園の公共茶室で開かれ、奇しくも半島在住の男性茶人2人が懸け釜。阪正臣を前面に出す道具組で、茶客をもてなしました。

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正臣(1855~1931年)は、尾張国知多郡横須賀町(東海市)で、父、正緒翁(丈右衛門)とその側室とも子の子として生まれました。名を正臣、幼名は政之介、字は従叟、号は茅田(ぼうでん)、木隠弟兎、観石、ほかにその居を表す樅屋もあるそうです。幼い頃より和歌や書に親しみ、神職や華族女学校の教員を勤めるかたわら才能を認められ、宮内省にあった御製、歌会始など和歌に関する事務部門、御歌所(おうたどころ)に入所します。以降、歌人として和歌の教育普及に携わりながら、書家としても活動しました。
 

明治天皇の子女に和歌や書を指南するようになり、ついには貞明皇后(大正天皇后)、香淳皇后(昭和天皇后)の書の指南役に任じられます。そして、大正8年(1919)には『明治天皇御集』の浄書を手掛け、当時の書家として最高の栄誉を得ました。
 また、自詠歌に絵を付したり、和歌関連の出版物の挿絵を手掛けるなど、絵をたしなむ一面もありました。

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ゆかりの愛知には作品が多く伝わっている一方、宮廷歌壇、書壇への敬慕が薄れてしまったためか、書の品格の高さに対して市場価値が低く、長らく不遇です。
しかし、ロコ愛に満ちたお膝元の茶人は見捨てていなかったようです。

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東海市在住の裏千家神谷宗正さんは、地元愛知ゆかりの国焼、茶器の収集家で、特に郷土が生んだ阪正臣を敬愛して、書を中心に正臣が手がけた茶向きの作品を長年集めてきました。その成果が、この日、書院茶室「桐蔭席」での薄茶に発露されました。
寄付に正臣の弟子の掛布弓月の桜花画賛を掛けて、本席は桜の名歌とされる桂園派歌人、八田知紀の「よしのやま かすみのおくは しらねども みゆるかぎりは さくらなりけり」の和歌懐紙。知紀は薩摩藩の京都留守居下役となり上洛し、国学に志し、和歌を香川景樹に学び桂園派歌人として名をなします。明治5年、宮内庁に出仕して歌道御用掛を務めました。
弟子に高崎正風がおり、景樹―知紀―正風ー正臣ー弓月と、『古今集』の歌風が引き継がれた歴史を踏まえて、よく練った取り合わせと拝察しました。

歌に合わせて、名古屋財閥茶人の富田重助宗慶作の竹一重切・銘「霞」に早咲きのリュウキンカ、黒文字の若葉を添えて、水指棚は円能斎好みの「吉野棚」。

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正臣作品は、富士画賛を描いた風炉先屏風、自詠を書いた雪吹棗、木地煙草盆。とりどり配して、正臣愛を歌い上げます。正客の銘々皿に添えられた黒文字は、茶花の余りで亭主自ら削ったものです。

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一方で、愛知のお国焼コレクションも一挙披露。尾張藩付家老の竹腰蓬月の自作黒楽、高取焼かとみまごう月谷焼、伊良湖岬の漁夫歌人糟谷磯丸の手捻り、などなど珍品茶碗が供され、「よく集めた」「これは珍しい」などと歓声が沸きました。
近年、正臣同様に不遇だった愛知のお国焼が、ここ豊国神社献茶会で頻繁に取り上げられるようになっています。再評価の気運が盛り上がるきっかけになればといいな、と感じた次第です。

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この日、嬉しい再会がありました。名古屋茶道界の古老、小塚武弘さんが2年ぶりに古巣の豊国さんに姿を見せました。小塚さんは妻の宗康さんと裏千家茶人として活躍する一方、指物師、お仕服のベテランとしてお茶を支えてきた方です。今年89歳。豊国神社献茶会の事務局を長年務めておりましたが、数年前に病で倒れ、コロナ禍で外出することも稀になっていました。弟子の神谷さんが釜を懸けるため、久々の来場となりました。

もう一席は、記念館での薄茶。愛知・知多半島にある知多市在住の表千家松田宗黄さんが担当。後日レポートします。