「墨象」のパイオニア
篠田桃紅 107年のキセキ
名古屋・古川美術館で開催
茶室にも映る美意識
人生百年時代、「どう生きるか」「老いてなお輝くとは」「死んで何をのこすか」。そんな問いにこたえる注目の展覧会「追悼 篠田桃紅 107年のキセキ」が、名古屋市千種区の古川美術館・分館為三郎記念館で開催されています。
篠田桃紅(しのだとうこう、1913-2021年)は旧満州・大連生まれ。幼い頃から書に親しみ、文字のかたちを探求するなかで水墨抽象画「墨象(ぼくしょう)」という新ジャンルを切り拓きました。1956年から58年にかけて滞在したニューヨークで高い評価を得て以来、国内外を問わず第一線で活躍。百歳を超えて創作と随筆執筆に、芸術家魂を燃やし続けました。
本展では、篠田桃紅作品のメインディーラーであった画商収集による「ザ・トールマンコレクション」より、貴重な肉筆作品と、半世紀にわたり取り組んだ版画作品を古川美術館と分館三郎記念館の両館で展覧しております。老いても枯れない創造の泉の豊さ、日本の美意識に根ざした独自の表現に打たれます。
開幕前日にあった特別内覧会には、米国外交官出身の異色の画商ノーマン Hトールマン (Norman H. Tolman)さんが開会挨拶し、シビアな一面と人間味あふれる篠田桃紅さんの人柄を明かしました。
トールマンさんは京都アメリカン文化センター館長兼京都領事を最後に外交官を辞め、1970年代前半に日本の現代版画を主に海外に販売する画商に転身しました。東京に転居後、ほそぼそと画商の仕事をはじめたところ、東京・南青山のマンションで桃紅さんを見かけ、お近づきになろうとアプローチ。「エレベーターなどで一緒になって、挨拶しても、いっさい無視」の"塩対応"。なんとか面談に漕ぎつけたら「私の作品を扱いたいなら、まず5万ドル用意しなさい」と前払いを要求。トールマンさんは在日ドイツ人の浮世絵を売ってお金を工面。札束を積むと「いちばん驚いたのは桃紅さんでした」。
これをきっかけに、トールマンさんは篠田版画 (リトグラフ)を世界の顧客コレクターに頒布する最大のディーラーへ。1978年からは、発表前の新作群から気に入った作品をエディションごと買い付け、保管、販売するという版元になり、売りさばきました。売るだけでなく、肉筆作品とリトグラフの篠田作品の一大コレクションを築き、美術館や画廊に篠田コレクションを出展し、作家の人気と価値を高めるビジネスを展開しています。没後、人気が急落する画家が多い中で、追悼展によって評価を高める姿勢は貴重でしょう。
桃紅さんと親交し、作品タイトルを付けることも任されるほど信頼関係を築きます。「桃紅さんは、夫婦、娘二人の一家4人によるファミリーでもてなすという私たちのスタイルがお気に入りだったのです。桃紅さんの成功は、私たちがあってこそ」と、ユーモアまじりに自負ものぞかせました。生涯独身を通した篠田さんに「どうして結婚しないのって聞くと、夫の世話をする時間で、作品が何作もできるじゃないのって」。
この展覧会の企画協力した現代美術家水谷イズルさんは「書家としての出発が、日本国内での篠田作品の評価が遅れた」と指摘します。篠田桃紅は1961年、世界最高峰の現代美術展で特選の栄誉を得ますが「日本では書は美術にあらず、書は博物館マターだった」と言います。
本展では、前衛書家として活躍する中、1956年43歳で単身渡米して独自のスタイルを模索して時期から、百歳にしてなお大作に挑む晩年までの軌跡を紹介します。2年間滞在したアメリカでは、時代の先端をゆく抽象表現主義に触発され、帰国後は自身の墨による抽象表現、空間表現を追求。肉筆ならではの、墨線の勢いや発色の広がり、和紙のにじみ、ぼかしといった偶然性をいかした大作や、晩年再び書画一体の画境に回帰していった作品群も見ることができます。
昭和初期創建の数寄屋建築である分館為三郎記念館では、生涯に千点以上制作したという桃紅独自のリトグラフ作品が並びます。篠田が生み出したリトグラフは、墨一色で構成。摺り上がった版画の多くに一つ一つ手彩色を施し、装飾やリズム感など表情が異なる作品に仕上げてあります。とくに文字を織り込んだ篠田作品は、茶室に掛けても映える和の美意識がどこか宿っていて、魅力的です。
【会 期】 2024年6月15日(土)~ 7月28日(日)
観覧時間 午前10時 ~ 午後5時(入館は午後4時半まで)
大人1,000円。
月曜日休館 但し、7月15日(月・祝)は開館、翌16日(火)は休館
【会 場】 古川美術館・分館為三郎記念館 両館同時開催
名古屋市千種区池下町2丁目50番
【主催】 公益財団法人 古川知足会 古川美術館