味わう

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竹筆・竹細工名人 松原立雄さん死去
ヒマラヤ未踏峰登頂の達人
名利求めず非売貫き大往生

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 竹細工の名人、わけても竹筆作りでは第一人者、75歳でヒマラヤ未踏峰を登頂した登山家でもあった松原立雄(りつゆう、本名の読み・たつお)さんが2022年12月6日、脳梗塞に伴う肺炎のため死去しました。満88歳。出身、自宅は愛知県尾張旭市。

 名古屋郊外の尾張、三河地方に伝わる農民武芸・棒の手を代々継承する家に生まれ、幼い頃から武芸で鍛え、竹籠編みを器用にこなした松原さん。根っからの登山好きで、3000メートル級の北アルプスは「庭」のように熟知し、冬山を含めて山行は「お散歩」という歴戦の山男でした。強靭な体力、登山術を生かして、高所、難所も平気、地質調査をする会社に勤務していました。
 

 退職後は清貧に甘んじ、登山と趣味の竹細工、畑仕事に専念。白いあご髭を蓄え、常に作務衣をまとい、竹と遊ぶ仙人のような暮らしぶり。一見ぶっきらぼう。対した人は誰であれ、その人となりを認めないと、口もろくにきかない一徹ぶりですが、いったん友人になると、どこまでも優しい。名利を求めない無私の心と、強靭な体力、根気、集中力を80代まで保ちました。
晩年は大病を幾度も患い、開腹の大手術から不死鳥のように何度もよみがえり、人生を謳歌した生涯は、ヒマラヤ山岳ガイドのシェルパたちが畏敬した「スーパー爺さん」の面目躍如です。

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 WEB茶美会の編集長である長谷義隆は、友人の紹介で15年ほど前に知己を得て、折々、愛知県尾張旭市の自宅工房「竹工房」に訪ねたり、拙宅茶室「拾穂園」の席披露の初釜にお招きするなど、交遊してきました。
 友人から茶杓、竹の花入の名人がいると紹介されたのが出会いでした。自宅離れの工房は、竹で作ったものオブジェ、特大の竹筆などで室内は埋まり、囲炉裏上部には焚き火でいぶし乾燥させるため、竹材や木材が並べてありました。
 

 当時、私は地元大手紙の記者をしていました。記者の名刺を渡しても、肩書き、メディアにはまったく関心がない様子で、口をつぐんだまま。とりつく島がない印象を受けました。この日、私は家蔵の茶杓数本を持参しました。いずれも武家の茶人の手になる、景色ある竹を選んで作った気迫と美意識が凝集された美杓です。松原さんは、その何本かの茶杓を手に取って、作行きをじっくり見ておりました。無言でした。拝見し終わると「どうだ、餅を炙っているが、食べるかね」と、餅と番茶を勧めました。その後続いた私の茶杓談義に時折うなずいており、眼差しは次第に和らいでおりました。

 訪問前、松原さんが手がけた茶杓を、その唯一の弟子、平野洋子さんが営むお店で拝見したことがありました。約束通りに丹精に削ってあるけれど、材料の竹がなんとも平板。樋もなければ、色変わりもない、しらーっとしていて、面白みに欠けるものでした。惜しいと思いました。
 先人茶人たちの研ぎ澄まされた茶の息吹が宿る茶杓から、何か感得してほしい、と内心願って、初対面で偉そうにも家蔵の茶杓を持参したのです。
 帰り際、「お前さん、気に入ったのがあったらでいいが、竹の花入、持っていかないか」「これ、珍しいぞ」。竹を蛇腹状に切った行灯風珍品など数点を頂戴しました。片桐石州好みの写しだという竹花入は、桐箱を誂えて大切に保管しておきましたが、蛇腹状の竹が割れてしまい、一度も茶会に使えなかったのは残念でした。

 松原さんの登山家キャリアが最も輝いたのが2009年7月、インド・ヒマラヤの未踏峰アッチェ峰登頂です。日本山岳連盟東海支部の隊員の一人として、松原さんは当時75歳にして参加。当初目指した高峰は気候温暖化により氷河が後退したり、氷壁がもろくなっていたりして、登頂ルートが見出せず断念し、同じ山域の未踏峰を目指すことになりました。それが、後日、現地語で「娘」の意味する名を付けた、麗しい山容をもつアッチェ峰でした。
 同7月18日、登山隊は3人で第2ベースキャンプから登頂を開始しましたが、困難な山行に隊長、隊員の同行2人は早々に断念。松原さん一人が山岳ガイドのシェルパ4人と、高度差850メートルの山頂を目指しました。山頂に続く氷壁に取り付く前に、深い雪が超難所となり、超人的なシェルパたちですら、ラッセルをギブアップし、松原さんが先頭に立って深いを雪をかき分けて、ついに標高6,066メートルの未踏峰の登頂を果たしました。


 下山途中に遭難。雪庇に隠れたクレバスに落ち、なんとか自力で這い上がって九死に一生を得ました。この登頂は地元紙に大きく報道されましたが、どうした行き違いか、あろうことか、別人が登頂したと報じられてしまったのです。
 松原さんの帰国後、誤報であることを伝え聞いた私は、同じ新聞社に勤めていたこともあって、申し訳ない気持ちになりました。尻拭いというのではありませんが、「この人」欄であらためて危機一髪のエピソードを交えて、偉業達成を紹介させてもらいました。
 この取材を通して、松原さんとの距離はぐっと近くなり、その後、ゆくたびに歓迎を受けて、
さらに松原さんの日々を撮った地元カメラマンによる写真集の出版なども報じたりして、交流は深まりました。

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 自宅庭で鮎を養殖。地下水を汲み上げて、割った竹を巡らして水路とし、鮎を育てていました。登山仲間が毎年秋口に各地から集まって、成長した鮎を囲炉裏で串焼きにして楽しむ鮎パーティーを開催。寝袋持参で全国から集まった山仲間たちは年配ながら、猛者揃い、元気いっぱい。五大陸の最高峰やら秘境高地をそれぞれ登ってきたという近況をさりげなく語りながら、お酒を酌み交わしていました。
隣の年配の男性は、明日から、日本外務省が渡航制限を出しているという、アフガニスタンの秘境渓谷に潜行するんだと、話していました。松原さんは、穏やかな笑みを浮かべて、話を聞いていました。自身は、大病をなん度も患って、大手術を繰り返したため、毎年欠かさなかった年越しの冬山登山をあきらめたとか。この後、鮎を飼うのはやめたそうで、最後の鮎パーティーに参加できたのは、幸運でした。

 

 松原さんは、竹の繊維質を指の先で一本いっぽんほぐして、毛筆状にしてゆきます。何千、南万という繊維質をほぐす作業は、並外れた根気と集中力、忍耐力が要ります。竹をそのまま使用して作られた筆は、動物などの毛を使用した毛筆とは一線を画す、荒々しい「独特のかすれ」が得られ、書家に珍重されます。丸太のように太い竹筆まで作り、この技術だけでも、無形文化財に値するものだったと思います。
 ネットで調べると、竹筆専門店は日本に唯一、金沢にあるようですが、松原さんにとって、あくまで竹細工は趣味。売ることはなくて、気に入った方にあげたり、地元貢献として尾張旭市のふるさと納税の返礼品として市に寄付したり。プロを凌ぐ第一級の腕前を持ちながら、非売を貫きました。


 松原さんから「この竹筆を役立てほしい」と託された筆の何本かを、書道をよくする人たちに差し上げました。中筆程度なら市販品があるようですが、太い竹筆は出回ることがなく、書家から「こんな稀少な物を」と大変、感謝されました。太筆は一本10万円以上するようです。
 2021年には、東京・銀座にある、RICOH ART GALLERY(リコーアートギャラリー)で開催された「地域の力×リコー」展に、竹筆をはじめとする自作の竹細工が出展。最晩年は、それまで断っていたテレビ取材も受けて、紹介されたそうです。ただ、東京には辟易としたそうです。

 2022年9月に愛知医科大学附属病院に入院、コロナ禍で家族、友人とも面会叶わず、いまわの際には、家族の面会を許されましたが、視床脳梗塞のため会話ができず「言い残したいこともあっただろうに。かわいそうでした」と奥さん。コロナ禍第8波のまっただ中、ひっそり家族葬で葬儀・告別式が12月10日に営まれました。松原家代々の棒の手の武芸は、孫の代まで受け継がれたいるそうですが、主を失った竹工房はそのままになっているとおききました。
 合掌

     長谷義隆(WEB茶美会編集長)