一器・一花・一菓
超レア名物裂・有楽緞子
棗濃茶の仕服として披露
茶の湯では、抹茶を入れる茶器を包む袋・仕服すら鑑賞対象になります。濃茶の茶碗に添えて客に出す「出し帛紗」も、鑑賞に耐えるものが求められます。茶の湯に使う裂地(染織品)には、古くは鎌倉時代、下っても江戸時代前期に中国との交易船や南蛮船に舶載されて日本にもたらされた物が数多くあります。美術館級の裂地を使うとは、なんとも贅沢なことです。
有名な茶人の名を冠した「名物裂(めいぶつぎれ)」は、茶人垂涎。とりわけ珍重されます。「利休間道」「珠光緞子」「紹鴎緞子」「有楽緞子」「織部緞子」「遠州緞子」などです。
武家茶道の有楽流では濃茶には焼き物の茶入を用いるのが常ですが、先日拾穂園で催した茶会では本来、薄茶器である棗をあえて濃茶に用いました。棗を包んでいる名物裂「有楽緞子(うらくどんす)」を披露するためです。
有楽緞子は、織田有楽斎(信長の実弟=長益)が所持したとされる緞子です。濃紺地に黄茶色で網目に雲形を散らし、その内に翻って飛ぶ鶴の文様を織り出してあります。中国明時代の舶載品です。
有楽緞子は本歌に出合うことはほとんどありません。たいがいは、文様が崩れていたりする後世の写しです。
調べてみると、伝存まことに稀少な名物裂であることが分かりました。
有名どころでは、東京国立博物館所蔵の大名物茶入「珠光文琳(じゅこうぶんりん)」は仕服が6つ添っており、その中に有楽緞子があります。
ほかには五島美術館所蔵の唐物茶入「稲葉大海」の仕服に有楽緞子がありました。2つの茶入とも織田信長所持とされ、推測するに信長所持の時代に有楽斎が仕服を整えたのかもしれません。以前拝見した金地院崇伝宛の有楽斎書状に、崇伝から茶入の仕服を頼まれて相整った旨が書かれていましたから、有楽斎が茶入の次第を整える相談に乗ることもあったのだろうと思います。
それならと、有楽斎所持とされる茶入を調べてみると、「玉垣文琳」(遠山記念館所蔵)は東山御物。有楽斎から豊臣秀頼に伝来した大名物ですが、添っていません。大坂城落城の際、焼損し焼け跡の灰の中から掘り出され、破片を漆で繕われ、後に徳川将軍家の柳営御物となった変転の歴史を有します。落城の際、仕服などの付属品はいったん焼失していますから、有楽緞子がないのは納得がゆきます。有楽斎所持の茶入では「草部屋肩衝」が記録に見えます。堺の茶人、草部屋道設ゆかりの肩衝ですが、茶入自体が存滅不明です。
さらに個人蔵ではありますが、有楽斎が所持し後に小堀遠州家に伝わったとされる古瀬戸瓢箪茶入を見ると、小堀家時代に仕服が改められたのか、有楽緞子の仕服は添っていませんでした。意外なことに、挽き家の仕服、しかも裏地に、遠州緞子の本歌が大胆に使用されてたのは、驚きでした。
有楽斎の菩提寺なら伝存しているだろうと調べてみました。菩提寺の寺宝を一堂に展示した「建仁寺正伝永源院寺宝」展(2000年、和泉市久保惣記念美術館)にも、有楽緞子は載っていませんでした。
有楽緞子ほしさに入手した棗なので、これまで棗そのものにあまり注目しておりませんでした。茶会で初めて使ってみると、何気ない造形ながら利休の鋭い美意識を宿しているかのような造りに気づきました。吸い付くような口造り、内くりの鋭さ、深さ、甲の造りなど精妙無比。茶室に差し込んだ陽の光に映えて、漆黒の真塗が時代を経て栗色になっているのが見て取れ、なるほど名物裂の仕服が添っているだけの価値があるものだと分かりました。名物裂添うところに、駄品なし。
席中でお客から「何百年も前も経てば、布はしょうがぬ抜けて、ぼろぼろ、時に粉々になってしまうのに、名物裂はどうして長持ちするのか」と尋ねられました。もちろん茶の湯道具は箱に入れて大切に保管されてきたからですが、あえて「今回は特別に使用していますが、もちろん使わないのが一番」と答えて、席中の笑いを誘いました。
名物裂に限らず、仕服の布地は手で触ってはならず、つがりや紐を持つのが茶席のマナーです。紐は傷めば取り替えが利きますが、裂地は取り替えができないからです。
いくら大切な茶道具であっても死蔵すべきでなく、時にお披露目することで、また新たな発見があることを思い知りました。