味わう

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バレエ界の快男児しのぶ
諏訪等さんお別れの会
「見果てぬ夢」追った友へ

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「日本バレエのドン・キホーテ」と呼ばれた快男児、チャイコフスキー記念豊田バレエ学校理事長で豊田シティバレエ団総芸術監督だった諏訪等さん。72歳で急逝した三回忌を前に2022年2月6日、諏訪さんの地元、愛知県豊田市の名鉄トヨタホテルで「お別れの会」が催されました。

雪が舞う寒さの中、諏訪さんを慕った角界の友人、バレエ関係者やその地元の人たち100人余が祭壇に祀られた遺影に献花し、手を合わせていました。2年前の2月27日、亡くなった直後からパンデミックが急拡大し、お別れの会は延び延びになっておりましたが、妻のバレエ指導者井上弘子さんは念願叶い「諏訪も皆様とお会いできるこの日を待ち望んでいたことと思います」と、参列に感謝の言葉を述べました。

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 諏訪さんの業績は国内以上に海外で評価されていました。日本初のバレエ専門学校、豊田バレエ学校(2021閉校)にサンクトペテルブルク市芸術家同盟より「チャイコフスキー記念」の称号授与、2007年には国際的な公演活動に対して「セルジュ・ディアギレフ称号」などを受賞。ベルリン、ソウル、サンパウロなど一流の国際バレエコンクールの審査員も務めました。

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 もちろん「愛知県芸術文化選奨文化賞」「名古屋市民芸術祭賞」「豊田市文化功績賞」など、地元での栄誉もあまたあります。

これら国内外で活躍し数々の栄誉に彩られた57年のバレエ人生を物語るトロフィー、栄誉盾、メダル、賞状が所狭しと並べられ、バレエ芸術一筋の軌跡を、参列者は改めてしのんでいました。

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 諏訪さんは豊田市の農家の長男として生まれ、16歳でバレエを越智實氏に師事。22歳でチャイコフスキー記念東京バレエ団に入団。5年間の在籍中、東南アジア、欧州公演にも参加し国内外で数百の舞台に出演。74年に帰郷して、豊田市では初めてのバレエ教室を開設し、一線で活躍できる後進育成を心がけ、国際水準の指導法を導入しました。その延長上に1995年豊田バレエ学校を私財を投じて開校しました。

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同時に、国内外での古典全幕バレエや創作全幕バレエの上演に情熱を傾けました。常に大きな夢を語って、理想を追い求めるバレエ一筋の生き様は「ドン・キホーテ」とも呼ばれましたが、それこそが諏訪等さんの魅力でした。

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展示の最後には、趣味の陶芸作品が十数点並べれたました。諏訪さんは瀬戸の陶芸家寺田康雄さんが主宰する「美山陶芸教室」に学び、手捻りやロクロを楽しんでいました。お別れの会の記念品に、寺田さん作陶の一輪挿しにもなる徳利が列席者に配れられました。諏訪さんは大らかな人柄丸出しの自作焼き物に、大胆な「スワ」の彫銘を入れることを常としていました。友人でもある寺田さんは陶芸の師弟関係と諏訪さんの彫銘にちなみ、諏訪さんの彫銘をほうふつとさせる「ヤスワ」の文字を器底に彫り、陶芸家らしい粋な追善の思いを添えておりました。

会場で配られた小冊子「諏訪等を偲んで」に、交友30年に渡ったWEB茶美会編集長、長谷義隆による以下の寄稿が冒頭で掲載されました。

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「見果てぬ夢」追った友よ
長谷義隆=「WEB茶美会」編集長、元中日新聞編集委員

夢は実り難く、敵はあまたなりとも、胸に悲しみを秘めて、我は勇みて行かん‥‥。
自らを伝説の騎士と思い込んだドン・キホーテをミュージカル化した「ラ・マンチャの男」のテーマ曲「見果てぬ夢」です。
諏訪等さんは見果てぬ夢を追い求めた、猪突猛進の生涯でした。
夢半ばだったとはいえ、わが国のさきがけとなった豊田バレエ学校を私財を投じて開設、運営し、後進を育てるとともに、全幕バレエ上演に情熱を燃やしました。まさに有言実行の人でした。
バレエ劇場やバレエ指導者免許制など、かくありたいプランを熱く語ってやまない諏訪さんを、私は年下にもかかわらず「どうどう」と手綱を引きながらも、このひたむきなバレエ愛こそ諏訪等なのだと感じておりました。
諏訪さんとの交友30年。愉快、痛快なエピソードは語りきれません。
さよならは別れの言葉じゃなくて 再び逢うまでの 遠い約束‥‥。そんな歌がありました。
諏訪等はみんなの心の中に生き続けています。