味わう

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数寄茶人・亀井猛さん死去
名古屋茶道界の名物男「亀ちゃん」

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 茶どころ名古屋を代表する数寄茶人の一人、亀井猛(かめい・たけし)さんが2022年1月7日、入院先の愛知県清須市のリハビリ病院で、腎不全のため死去しました。満82歳でした。葬儀・告別式は9日、名古屋市内の葬儀会館で営まれました。喪主は長男亀井宣妥(のぶやす)さん。

 亀井猛さんは1939(昭和14)年12月30日、尾張藩士の末裔で仏具製造を代々営む家の長男として名古屋市で出生。高校に入学するも父を亡くし、家族を養うために高校を中退。錺金具の金工修業の後、独立して腕のいい金工職人として鳴らしました。仕事の傍ら若い頃から茶道、華道、民謡にいそしむ風流人で、点前は表千家流を学びつつも「綺麗さび」の遠州流に傾倒。昭和生まれの少壮茶人17人による茶事・茶器研究会「笑和会」のメンバーとして揉まれる中で、昭和、平成の名古屋の茶道界をリードする茶人に成長しました。無類の読書家で博覧強記の人でした。

 

 遺品の自会記によると、1982(昭和57)年2月7日、名古屋・栄の浄念寺七日会(現・木曜会)が初陣でした。「若手の数寄者」(当時の浄念寺七日会案内状)として月釜デビューし、藤原俊成卿筆の歌切「加賀切」春の歌を床の間にかけて濃茶でもてなし、織部茶入、呉器茶碗、天明繰口釜など初期から本格的な取り合わせで、一躍注目を浴びました。
 その後、七日会、一宮・桃丘会、ながさか知足会、遠州流東海地区初釜などレベルの高い茶会に懸け釜。こよなく愛した古筆、復古大和絵を配して、名品・伝来道具を巧みに取り合わせる数寄茶人として名古屋茶道界に重きを成しました。茶懐石料亭経営者、茶匠、茶道具商が占める笑和会(解散)で、茶を生業とせず弟子すら持たない純粋な数寄者であり、異色の存在でした。
 最後の茶会は奇しくも月釜デビューと同じ日にち、2019年(平成31)年2月7日。浄念寺七日会の後身である木曜会(料亭志ら玉)の濃茶席でした。

 2020年5月に「最後の最後の最後の花道」を飾るべく、木曜会の担当を期しましたが、コロナ禍で果たせずじまいでした。

 いい茶器に出くわすと「うなる」癖があり、一会に三度唸らせる「亀の三唸り」がでた茶会は成功とされました。一方で、ほめようがない茶会だと「茶花の高さがいい」「菓子の吹き寄せがいい」などと誉め殺し。想いを寄せた女性にはプレゼント攻勢をかけるロマンティストで、大寄せ茶会のさなか、席中で恋文を渡そうとして失敗して大目玉を食らう「どじ亀」ぶりも発揮。売り立て会での茶器取り合い籤引きで30数連敗を喫しても、ライバルの作為を疑うことがなかった「人の良さ」は語りぐさです。友人たちから親しみを込めて「亀ちゃん」と呼ばれました。


 茶道、茶器収集に打ち込むため妻子と別れて、趣味を同じくした「ママちゃん」こと大川やす子さんをパートナーに暮らしました。晩年は歌舞伎や日本舞踊の声掛け「大向こう」としても活躍し、地元はもとより東西の歌舞伎公演にも遠征し、大向こうとして鳴らしました。
 長年連れ添った大川さんが2021年2月28日に満79歳で病没すると、持病が悪化し、入退院を繰り返し、同年6月以降は入院生活を送っていました。

 美食家で数寄茶道を愛した個性派カップル、亀ちゃん・ママちゃん。茶席の常連だったお2人の相次ぐ旅立ちにより、名古屋の茶道シーンは寂しくなります。合掌

  (長谷義隆)