「天下一田舎家」38年ぶり再建
森川如春旧蔵「覚春庵」と改名
仏教聖地の名古屋・日泰寺
WEB茶美会・長谷義隆も一役
「天下一田舎家」とうたわれた古民家茶室が38年ぶりに、名古屋市千種区法王町の覚王山日泰寺に再建されました。中京を代表する茶人で近代日本有数の古美術目利きとして鳴らした「如春庵(じょしゅんあん、にょしゅんあんとも呼ぶ)」こと森川勘一郎(1887-1980年)の名古屋別邸にあった田舎家茶室です。日泰寺が名古屋市から無償譲渡を受けてから4年かけて移築、再建したものです。
再建運動が続く中、移築先は二転三転してついには処分寸前ところ、日泰寺代表役員で茶人の村上圓竜さんが決断。覚王山と如春庵から1文字ずつ取って「覚春庵」と改名しました。愛知県知事や名古屋市長をはじめ関係者約200人を招き、2024年3月30日、竣工を祝う本堂での法要に続いて、内覧会、記念茶会がありました。
熱田神宮の田舎家茶室「又兵衛」の宴会場化により、近年低調気味だった名古屋の「田舎家の茶」ですが、本命エースが復活。新たな拠点の誕生に期待が高まります。
境内のこの一帯には和室4室が連なる125畳の大書院・鳳凰台、江戸中期の草庵茶室・草結庵、さらにもう一つ茶室があり、ここに覚春庵が加わりました。これら茶室・書院群がつながる庭園「八相苑」の改修完成のあかつきには、緑豊かな景勝地に日本文化、国際交流の一大発信拠点になることが期待されます。総事業費は1億数千万円の予算が組まれています。
日泰寺境内北東の庭園エリア・八相苑に復元されたのは、建築面積約130平方㍍の木造平屋建て茅葺(銅板仮葺)。森川如春庵が1928(昭和3)年、葉栗村(現愛知県一宮市)にあった江戸時代初期(17世紀初頭)の庄屋今井家の住居を名古屋の別邸(千種区菊坂町)に移築し、茶室として改修を施したものです。移築から庭造り、門構えなどの整備に相当時間を掛けた、入魂の田舎家でした。
近代茶会随一の書き手であり日本美術の保護者であった高橋箒庵によって「天下一田舎家」と評され、昭和初期における「田舎家」の代表作です。「昭和茶会記」(昭和4年3月)に詳細に描写されています。
引用すると。
「移築されたる田舎家は、元葉栗郡葉栗村杉山の旧家今井一郎氏の居宅で棟木の一端に康正の年号が幽かに残つて居る(中略)今より四百七十年前の建築であるが、当家は土地の大庄屋と覚しくて家屋の構造も並々ならず。在所が木曽川沿岸なので自由に木曽の木材を使用した頑丈作りで(中略) 黒光りのする大黒柱が間毎に対立して、平屋なれども十四間の座敷と同じく十二間の土間あり。年代と云ひ造と云ひ正しく天下第一の田舎家たるべしと、近頃之を実見した数寄者連中より折紙が付けられたのは決して不当ではあるまいと思ふ。是れより先き横浜の原三渓翁は伊豆の長岡に同地方で発見した時代田舎家を移築して、世間田舎家多しと雖も此右に出づる者なかるべしと脂下って居た処が、其後森川家のが出現して今は漸く其の頭を抑へられたる趣あり。殊に従来田舎家好きで到る処に之を移築した経験ある益田鈍翁が、一も二もなく森川氏のに感服して同家訪問名簿中に小作人と署名したと云ふので、今日の処森川家の天下一田舎家と成り澄した次第第である」
室町時代「康正(1455〜1457年)」の年号がかすかに書かれた棟木があったとされ、一説には室町時代に遡る日本屈指の古民家の可能性がありましたが、今回、部材や加工法を調べた結果、室町説は否定され江戸初期の建築とわかったと、日泰寺事務長から完成披露の説明会で話がありました。
森川別邸時代は瓦葺きになっていたのを、創建当初型式の葦葺(あしぶき)屋根で整備しました。現行の建築基準法では葦葺での再建が許可されなかったため、銅板で屋根を二重に覆いました。今後の法改正次第では、本来の葦葺屋根に戻すことが可能という、念の入れようです。岐阜市の田中社寺株式会社が施行しました。
さて、元の立地は日泰寺の丘向こうの東区田代町坂ノ上(現・千種区菊坂町)の高台崖上でした。
「一帯新開地と覚しく、畑地の間に新築家屋が連続して居る其小高き崖の上」にありました。如春庵は昭和初期に一宮の本宅ではなく、名古屋の別邸で家族と暮らしており、3人の娘を、近所の椙山女学園に通わせていました。この別邸から眺めた景色はよく、森川家と親交のあった名古屋の画家山田秋衛が描いた「覚王山十景図」が知られています。
露地について、箒庵は「別に何等取繕ひたる景色無きは却て主人が惨たる苦心のある処」とし、あえて凝りすぎないところに森川如春の田舎家茶室の風趣がうかがえます。
田舎家にあった露地の庭石は、没後人手に渡り、行方知らずでしたが、森川氏本宅にあった別の茶室の移築先に使われたと聞きました。
如春庵自身、どうこの田舎家茶室を使ったのでしょう。
席披露に招かれた箒庵は「昭和茶会記」に書きます。
「緑先伝ひに十二間続きの(大炉のある12畳)下段の間」でまず濃茶が振る舞われました。
床の間がある座敷ではなく、野郎畳を敷き詰めた囲炉裏のある「だいどこ」(12畳)での濃茶。これぞ、野趣に富んだ田舎家の茶の面白味でしょう。実際、この「だいどこ」で茶会をするとなると、90センチ四方もある特大の囲炉裏を囲んでの主客の配置、室礼は規格外とならざるを得ません。常の茶会の趣向では映らないでしょう。
この後、高橋箒庵は「ざしき」(10畳)に移り「仕切りの板戸を開いて上段の間に動座すれば、正面に頑丈なる柱又は落し掛けある床の間を控へ、之に並びて書院風に障子二枚を立てたる火灯口あり。当初此家屋を建築したる主人が尋常一様の百姓に非ずして、土地で長者とも云はれた大庄屋なりし事疑ひある可らず」
大昔の田舎家に床の間や火灯窓があるのは、奇妙なところ。森川は自著「田舎家の茶」(1936年)で次のように述べています。
「畏友原富太郎氏が嘗て私の家に来て、四百八十年にもなる家に床の間や窓があるのは、後から直したものだらうなぞと云はれたが、窓は建て込みになつて居て後から入れたもので無く、それに床の間と云ふよりは仏間であったらしく、私は張壁に(何時でも復旧出来る為に)換へたが、元は板張りで、床には開扉の釘のあとがあり、裏側は金蔵になって居る。而して又此の時代に床の間は絶体に無いと云ふ反証も無い(勿論今日の様な床の間では無い)。而しながらこれは佛壇に使用して居ったものと見るのが至当であらう」
床の間と火灯窓は移築後の後付けではないと主張しています。
今回の調査で「森川氏移築前には葦葺から瓦葺になり、移築までに一度以上大修理がされ」たことが分かったそうですから、書院風の8畳座敷については創建当初の姿かは不明ながら、森川が床間は仏壇でその裏に隠し金蔵があった、とする指摘は説得力があります。
稀代の古美術目利きで一大コレクターだった森川は、日本有数の美術コレクターであった原三溪こと原富太郎(1868~1939年)とも親しく交友しました。原三渓が森川に宛てた多くの書簡が個人宅にあったことを思い出し、そのコピーを取り出してみると、三渓は森川を「如春老兄」「如春先生」と敬称で呼びつつ、道具収集、茶会でのエピソードをざっくばらんに書き送っています。一方で、二人は茶器収集、田舎家自慢を張り合うライバルでもあり、再建なったこの田舎家に座ってみると、三渓との応酬が目に浮かぶようです。
明治から昭和前期は、財界茶人、数奇者の間で築数百年の田舎家を買い取って、景観に優れた土地へ移築し、田舎家の風趣を持った茶席または別荘を所有することが流行しておりました。
原三渓の茶会記を調べると、近代数奇者たちは好んで自然豊かな田舎家茶室に同好の士を招いて茶会を開いており、後に国宝・重文となる古美術、仏教美術に本格のさび道具を自在に取り合わせて、時に手造り茶器を織り交ぜた自由闊達な茶を展開しました。
如春庵も自著『田舎家の茶』(1931年)において、田舎家の茶の良さを主張しています。
如春庵が手掛けたこの田舎家は、益田鈍翁(ますだ・どんおう)や高橋箒庵(たかはし・そうあん)など当時を代表するの数寄茶人たちからも、高い評価を受けており、近代の文化史の上でも貴重な茶室といえます。
景観、庭園の眺望を取り込んだ田舎家茶室は、伝統的な「市井の山居」の茶室とは異なり、隠棲、求道的な茶道とは一線を画すものです。反近代的な、おおらかな自然境に花開いたもう一つの茶道文化です。数奇者の時代の茶の湯の再発見につながる場になることを期待したいところです。
この森川邸田舎家は、名古屋市が1986(昭和61)年、当時計画中だった古民家テーマパークで復元展示するため遺族から寄贈を受け、その後バブル崩壊や市財政の悪化でテーマパーク構想は立ち消え。再建話は二転三転、最後の保管場だった名古屋市のごみ焼却施設山田工場も解体が決まり、行き場を失い処分やむなしのところに、日泰寺が名乗りをあげて、安住の地を得ました。
日泰寺は、日本唯一の仏舎利を安置する仏教聖地。タイ王室から日タイ親善のため、ブッダの真骨、仏舎利の一部が日本に寄贈。そのお骨を祀るため建てられた聖域です。
WEB茶美会編集長の長谷義隆は中日新聞記者時代、再建の目処なく放置された田舎家の存在とその価値に光を当て、当時顧みられることがなかった孤高の茶人如春庵の再評価に先鞭をつけました。以来20数年、粘り強く追って、節目ふしめに報道。報じるだけでなく、如春庵顕彰茶会などを推進し、田舎家再建に対して息長く取り組んできました。
紆余曲折を経て再建なった森川邸田舎家。知られざるエピソードや、森川如春庵の再評価の道のりは、稿をあらためてお届けします。
=WEB茶美会編集長・有楽流拾穂園主 長谷義隆