知る・学ぶ

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織田有楽斎の城に取り違え植樹
織豊期の知多・大草城址
「有楽椿」のはずが「太郎庵椿」

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織田信長の実弟で後に茶人として名を挙げた織田長益(有楽斎)。有楽斎が茶席の花として愛用した有楽椿が、ゆかりの城跡に植樹され、椿苑になっていると聞きました。若き日の有楽斎が城の土木工事を普請し終えたものの、兄・信長の横死により天守、櫓などの建築を果たさず、廃城となった"幻の城"大草城です。

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伊勢湾に突き出た愛知県知多半島、その北部に位置する知多市。樹木が生い茂った城内を巡るうち、平らな二の丸跡に出ました。その一角に樹高1㍍ほどの椿の苗木が20本以上植わっているのを見つけました。12月以降が花期の有楽椿なのに、11月12日時点で早くもピンクの花が見えます。「あれ、もう咲いている」と思って近づくと、驚きました。

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見慣れた有楽椿とは明らかに違います。「これって、太郎庵椿でしょ!」。唖然としました。
似て非なる太郎庵椿。さりながら、中京椿の名椿。品があってそれそれはそれで、美しい椿です。
本当の有楽椿は別にどこかにあるかと、周囲を見渡しましたが、植樹はここのみのようです。
どうして、こんな手違いが起きたのでしょうか。狐につままれた思いです。
椿のいわれを記した駒札を立ててあった跡でしょうか、札が外された杭が2本見えました。
建設半ばで廃城となった織豊時代の遺構である未完の城に"幻の有楽椿苑"とは。有楽斎の不遇に、ため息をつきました。

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有楽椿は古来「太郎冠者(たろうかじゃ)」の名で呼ばれ、「淡侘助(うすわびすけ)」とも称されています。花は、一重の中輪ラッパ咲き。淡紅色に紫を帯びた独特な色。葉は先端が細長い長楕円形で、葉端は鋸歯状。花期は、12月から4月頃まで。WEB茶美会の本部茶室がある有楽流拾穂園に植えてある有楽椿は11月13日現在まだ蕾は固く、開花は1か月以上先でしょう。

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一方、熱田神宮の別宮境内にある原木がある太郎庵椿より、一回り花が大きく豪奢な「関戸太郎庵」は、拾穂園で開花期を迎え、大粒の椿が雨に打たれていました。


新刊の労作「育てる、活かす、楽しむ 最新椿百科」(横内茂編著、淡交社)によると、関戸太郎庵は江戸中期の名古屋の茶人、高田太郎庵遺愛の椿が「多くの名物道具を所持した豪商、関戸家に伝えられ門外不出とされていた。その後、1933年に関戸家から森川如春庵に苗が贈られている」といい、近代になって諸家に伝播。名古屋の茶席ではとりわけ珍重される椿です。

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大草城の太郎庵椿は、関戸太郎庵より一回り小さい一重咲きでした。

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どうしてこんな間違いが起きたのか。ヒントが、本丸跡に建てられた天守閣風の展望台一階の展示にありました。有楽椿のパネルには「尾張周辺では太郎庵椿、江戸周辺では太郎冠者椿とも言った」。地元団体が作ったパンフレット「尾州知多郡 大草城」の「有楽椿」の紹介文でも「有楽斎が茶席で愛用した茶花。太郎庵椿。太郎冠者椿ともいう」と記され、太郎庵椿=有楽椿という誤説が重ねて記されていました。

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調べると、パンフ制作と関係する地元住民有志の方が記した2018年度日本福祉大学市民研究員 研究報告「~地域資源を活かした地域価値の向上~旭南地区の大草城などの歴史文化を調べ、まちづくりに活かす」がネットでヒットしました。
「3.大草城の活性化と認知活動・有楽椿の育成、養生」の報告に「3 年前の植樹以来、水やり・草取り・肥料入れな どしてきたが十数本枯れたので、昨年 10 本補充の植樹をして現在 38 本の有楽椿が育っ ている。12 月~3 月に毎年数本には花が咲く。 大草城に有楽椿の苑をつくり、大草城をより親 しみ深いものとしたい」という活動が紹介されていました。
2015年度より、地道で尊い植樹活動があったことが、この報告からわかりました。
ただ、残念ながら、誤説に依って最初から品種の取り違えがあった、と言わざるを得ません。

 太郎庵椿は、茶どころ名古屋を代表する侘び茶人、高田太郎庵が愛した椿とされます。熱田神宮の別宮境内に原木がある太郎庵椿。その椿苑は他には聞いたことがなく、大草城の椿苑は将来、名所になる可能性を秘めています。
太郎庵椿はそのままに、改めて、織田有楽斎ゆかりの大草城には「有楽椿」の植樹をお願いしたいところです。

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同報告では「有楽斎の足跡をたどって信長・家康・秀吉という 3 英傑に仕え、味方しながら戦国時代を生きて如庵や正伝院などの建物、有楽流茶道という文化を、よくぞ残して頂いたと思う。 少しでもその 精神性を有楽椿で、講演会などで伝えていきたい」と結んでいます。
 関係方面の前向きな対処を乞うところです。
   (有楽流拾穂園 長谷義隆)

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大草城とは
所在地、愛知県知多市大草字東屋敷110-1。織田信長の弟で、後に茶人として名を挙げた源五長益(有楽斎)が築城しようとして途中で断念した"幻の城"。 大野谷(現知多市の南部と常滑市の北部地域)を拝領した長益は1574年、大草の地に城を築き始めた。しかし本能寺の変で兄の信長が滅び、長益は秀吉に仕えることとなり摂津国味舌(現大阪府摂津市)に転封。このため、土木普請が終わったところで放棄され、未完のまま廃城。幻の城と呼ばれた。本丸・二の丸と周囲の土塁・堀の大部分が、ほぼ完全な形で残っており、このような織豊時代の城址は希少。 知多市では、歴史的な価値をとどめる城址を保存し、広く市民にも憩いの場として開放するため、1979年に大草公園として整備し、本丸跡に天守閣を模した展望台を設置。 市民憩いの多目的広場となっている。

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高田太郎庵とは
名は栄治、通称は藪下屋太兵衛。号に朴黄狐(画名)、良斎などがある。画を狩野常信に学び、表千家6代家元千宗左に茶を学ぶ。千宗左が焼いた楽茶碗「鈍太郎」をくじで引き当て太郎庵と号した。晩年、茶事に明け暮れた。熱田神宮から分けられた藪椿の一変種を「太郎庵椿」といい、現在でも茶人の間に尊ばれている。この椿は関戸家などに伝来し、諸家に分植されている。