森川邸田舎家35年変転に決着
覚王山日泰寺が2023年度に再建
戦前、一世を風靡した田舎家茶室をご存知でしょうか。数ある田舎家茶室の中でも「天下一」と呼ばれながらも、主を失った田舎家茶室が、約40年の時を経て、再建されようとしています。
中京を代表する茶人、如春庵森川勘一郎(1887-1980年)の名古屋別邸だった田舎家茶室が、名古屋市千種区法王町の覚王山日泰寺の茶苑に2023年度に移築、再建されることになりました。
元あった名古屋市千種区菊坂町と、同じ覚王山地区にある日本の仏教聖地に、やっと安住の地を得ました。
旧主の如春庵は、紅顔の愛知一中時代から古美術に天性の才を現し、本阿弥光悦の名碗、赤楽「乙御前」、黒楽「時雨」を我がものにした稀代の目利き。のちに国宝、重要文化財となる古美術を数々掘り出し「中京の麒麟児」と呼ばれた近代茶人の一人です。
故人が残した森川邸茶室「田舎家」は、江戸時代初頭の建築と伝わり、一説に室町後期とも言われる愛知県葉栗郡葉栗村(現在の愛知県一宮市)の庄屋の元住居です。如春庵が昭和2年から3年頃に名古屋の別邸(愛知県名古屋市千種区菊坂町)に移築し茶室として改修を施したものです。
移築から庭作り、門構えなどの整備に相当時間を掛けました。茶会に招かれた鈍翁益田孝は「天下一の田舎家」と嘆賞。全国有数の田舎家であったと言われています。
当時は、茶人の間で古い田舎家を買い取って郊外の別邸や避暑地へ移築し、野趣に富んだ茶席や別荘で、真行草の格を外したくつろぎのお茶をすることが、流行しておりました。如春庵も自著『田舎家の茶』において、田舎家における格外の茶の良さを主張しています。
如春庵が手がけたこの田舎家は、益田鈍翁や高橋箒庵など当時の高名な数寄者たちからも高い評価を受けており、近代の文化史の上でも貴重な茶室。解体した部材を名古屋市教育委員会が保管していました。
如春庵亡き後、名古屋市庁ではさまざまな再建構想が浮かんでは消えました。最初は当時構想された古建築ミュージアム「時代村」。その後、名古屋市守山区の志段味古墳群の整備施設内。さらに、森川コレクションを所蔵するゆかりから名古屋市博物館の日本庭園内。さらに非公式には名古屋城内への移築も取り沙汰されました。
遺族から名古屋市に寄贈されて35年、保管場所は転々。最後の保管場だった名古屋市のごみ焼却施設山田工場も解体が決まり、行き場を失うすんでのところに、救いの手が伸びたのです。
田舎家再建実現を図る一般財団法人R-INE財団森川如春庵顕彰会が、茶苑整備に乗り気の日泰寺に取り持ち、名古屋市教委、森川家と、日泰寺茶苑への移築再建に合意。協力する4者協定を結んだのです。
日泰寺は、日本唯一の仏舎利を安置する仏教聖地。タイ王室から日タイ親善のため、ブッダの真骨、仏舎利の一部が日本に寄贈。そのお骨を祀るため建てられた仏教聖地です。
境内の茶室エリアには、江戸時代の草庵茶室・草結庵、125畳の大書院・鳳凰台、さらにもう一つ茶室があり、これに田舎家茶室が加われば、日本文化発信ゾーンの充実が図られることは必定です。