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益田鈍翁の名古屋逗留「余聞」
名園「暮雨庵」の名付け親だった! 愛妾「おたきさん」の寄留先

「あの扁額は、益田鈍翁の奥様が、関東大震災で名古屋に疎開して、中村家にお世話になったお礼に、鈍翁から贈られたもの、と聞いております」―。初耳だった。ここは、桜並木で知られる山崎川を西に望む名古屋市瑞穂区陽明町にある名古屋きっての名園「暮雨巷(ぼうこう)」。その主室の書院の床脇に、「暮雨庵」と刻まれた扁額が架かる。「碧雲台」「鈍翁」の篆刻の朱印が彫られ、筆跡から、近代きっての茶人、益田鈍翁(どんのう)に違いない。下地に朱塗り、上塗りは黒の漆で、黒漆がかすれたところから地の朱漆が見える手の込んだ黒根来の木製扁額である。扁額の角にはL字型の錺金具が四方にはめられ、さらに螺鈿まで施されている。由緒ある寺院の山号級に重厚な仕立てである。こんな扁額は、茶席では極めてまれだ。
園内を注意して見て回ると、庭園入り口にさりげなくたたずむ自然石の石標が目についた。なんと「暮雨庵」と刻まれているではないか。鈍翁の横一行の三字「暮」「雨」「庵」を縦に配列したものである。わたしが気づいて指摘すると、案内してくれた三菱UFJ銀行の秘書室(名古屋)の担当者は「見過ごしていました。そういえば、そうですね」と驚いた様子だ。園庭の入り口の石標と、主室に架かる扁額。いずれも「暮雨庵」なのである。
暮雨巷と呼ばれているこの名園は、かつて「暮雨庵」と呼ばれた時代があり、扁額と石標のその時代の遺産ではないだろうか。俳諧の宗匠宅とばかり思っていたこの数寄屋が、近代茶道の大立て者、益田鈍翁と接点がある。そこには、なにやら秘密めいた謎が潜んでいそうだ。私の嗅覚センサーがうごめいた。がぜん興味がわいた。

東海銀行の後身、三菱UFJ銀行がまとめたパンフの「暮雨巷の歴史」は、「大正時代に入って、鶴舞公園から水主町へ抜ける道路が拡張され、龍門園の北側が削られると、そこに建っていた暮雨亭も取り壊される運命となった。これを知った繊維問屋の中村貫之助氏が買い受け、大正10年に、現在地に移築した」と記述する。もう少し詳しいリーフレットがあるが、こちらも1947年までの26年間の中村家時代のことは触れていない。

銀行管理となった戦後間もない1947(昭和22)年は、財産家にとって厳しい時代だった。関係者によると、中村家の本宅は戦災に遭ったようだ。焼け野原となった長者町の店も焼けたことだろう。当時の苛烈な財産税が追い打ちをかけ、戦災を免れた郊外の豪奢な別邸は維持しきれなくなったのだろう。この名園は銀行管理となって、東海銀行の歴代頭取住宅として使われた。
旧主の中村貫之助を知る人はほとんどいない。全国有数の繊維街だった名古屋・長者町の大旦那だったらしい。高級服や軍服を扱う毛織物商「ラシャ問屋」だったといわれる。戦前、軍事物資を扱う商人は富裕を極めたようだ。中村貫之助旧蔵の茶道具は「カネが出ていて、筋がいい」と名古屋の古美術商、茶人の間では定評がある。「名家伝来の道具」として一目置かれる。
中村家の戦後の本宅は名古屋市千種区のJR千種駅近くにあった。戦後再建された本宅は、数十年前に輸入車ショールームの建設に伴って解体された。その時、灯籠や庭石、茶器などが名古屋の古美術商、数寄屋大工、茶人たちに引き取られ、茶人宅の庭や道具蔵に収まっている。いきさつを知る茶人は「解体時に、庭石と小さな石灯籠とでトラック一台分、譲り受けた。庭石類のほとんどは名古屋市緑区の某家が茶室造りに使ったようだ。数寄屋大工の棟梁もトラック数台分か、運んでいった。道具のいいのは、ごそっと老舗の茶道具商が引き受けた」と語った。「松平不昧が好きで、不昧さんゆかりの茶器に執心していたようだ」と続けた。
知られざる数寄茶人、中村貫之助の最大の業績は、江戸中期、蕉風中興の俳人として一世を風靡した名古屋の俳人、久村暁台(くらむ・きょうたい)の居宅「暮雨巷」を保存したことだ。名古屋の別荘地だった八事山の西陵に広大な別邸を構え、暮雨巷を移築し、さらに三つの茶室を付設して、風趣に富んだ一大別業を造営したことではないだろうか。
さて、鈍翁が、関東大震災直後(1923年)から、如春庵森川勘一郎や即是高松定一ら茶友がいた名古屋に疎開して、一年あまり茶三昧の暮らしを送ったことは、名古屋の茶人の間ではつとに知られたことだ。徳川御三家筆頭の尾張藩の威光が消え、旧藩時代の武家茶人たちの灯火が消え果てた大正期、名古屋の茶風は縮こまっていたようだ。その沈滞した茶風に、新風を吹き込んだのが、近代きっての大茶人とされる益田鈍翁だった。名物道具を縦横無尽に取り合わせ、古筆、仏教美術を取り合わせた鈍翁の茶道は、名古屋の茶人たちの数寄心を覚醒させ、名古屋の茶道はよみがえったのである。
その茶恩から、名古屋の古手の茶人はいまだに「鈍翁さん」と親しみを込めて、益田を呼び、鈍翁の恩顧をこうむった古美術商の手すさびの茶器すら、喜んで使う。
扁額は鈍翁が作って贈ったのか? いや、旧所有者はこの鈍翁から授けられた庵号を非常に誇りに思い、このような重厚かつしゃれた扁額にしたのではないだろうか。
「なぜ、鈍翁」なのかと思っていたところ、管理人から「実は」と、こんな口伝えがあると聞かされた。「奥さまのお世話をしたお礼に贈られたと聞いております」
「尾張の茶道」の著作がある茶道家神谷昇司さんは「その奥さまとは、鈍翁の側室益田たきに違いない。たき自身も茶人として名を成し、大震災後、翌年まで名古屋の茶会記に名が残る。言い伝えと符合する」と指摘する。

暮雨巷を買い受けた中村は1921年、現在地の別邸とみられる丘陵地に移築した。その際、三つの茶室を付設し、廊下伝いにつなげた。郊外の別邸に、野趣に富んだ数寄屋や田舎家茶室を構えるのが流行した時代だった。この数寄者全盛の時代の茶の湯の遺構が、ほぼそのまま保存されいる庭園は全国的にもまれだろう。茶趣豊かな伝統家屋群とこけむす広大な庭があり、専門家から「名古屋一の名園」と評価される。単に俳諧宗匠の居宅であるにとどまらない、数寄者の時代の別業遺構、として暮雨巷は、再評価されるべきではないだろうか。
1947年、東海銀行(当時)の所有になった以降、「暮雨庵」の原本と扁額は離れ離れになったとみられる。戦後は頭取住宅、1991年以降は銀行の迎賓館となっている。茶人ならずとも、必見の茶の湯名所である。
毎月第二水曜日に予約制で一般公開している。三菱UFJ銀行暮雨巷=電052(831)8069(WEB茶美会・長谷義隆)